前回の最後にちょっと触れましたが関東大震災の東京の復興についてです。 実は関東大震災後に作成された都市計画では画期的かつ抜本的な「帝都復興計画」が構想されていたことはあまり知られていません。まあ実現しなかったので知られていなくても当然なんですが。それによると、 viagra cost on prescription ・江戸以来の街道は完全に無視 ・パリを参考に主要道は真っすぐ放射状と同心円を描く環状に overnight viagra ・道幅も将来の自動車の普及を見越して広く ・各地に大きな公園も整備 と大々的なものとなっていました。この大構想が実現していれば東京はもっと交通至便な街となっていたことでしょう。
cialis refractory period 残念ながら当時の日本は第一次大戦後の不況の最中、おまけに震災で大打撃を受けたのにどこにそんな金があるんだ!と猛反対を受けて計画は大幅縮小。結果ごく一部が実現したに過ぎませんが、その構想自体の評価は高く、太平洋戦争後の都市整備にも大きく影響を与えています。 この都市計画構想策定の中心となったのが当時の大物政治家である後藤新平。大幅縮小を余儀なくされる構想を披露したが為に「大風呂敷」、「ホラ吹き」と揶揄されますが、金の調達についてはともかく、都市計画という分野において先見の明があったのは紛れもない事実でしょう。 この後藤新平という人物、歴史を勉強する中で当然知ってはいましたが、先年ひょんなことから詳しく知ることとなりました。きっかけは江戸後期(幕末と言えないのが非常に残念)最高の蘭学者・高野長英。高野長英に興味を持ってその伝記を読んだのですが、その著者が有名な哲学者の鶴見俊輔でした。歴史が本職でない鶴見俊輔がなぜに高野長英の伝記を?と疑問に思いつつも読み進めたのですが、あとがきにその理由がありました。この2人親戚なんだそうです。具体的にいうと高野長英の兄弟の子孫が鶴見俊輔です。高野長英は初名後藤悦三郎、母親が離縁されて実家の高野家(仙台支藩水沢藩留守家藩医)に一緒に戻ることとなったのですが、ちょうど高野家でも跡取り息子がなかったことから婿養子に入り高野姓になります。その後藤家側の子孫にいるのが後藤新平、そのまた孫が鶴見俊輔だそうです。 江戸後期最高の蘭学者に文理どちらの分野にも通じた戦前屈指の政治家、そして現代日本最高レベルの哲学者となんともすごい人物がそろった一族だなあと思わずにはいられません。今回のタイトル「華麗なる一族」は普通はセレブな家系の人々のことを指すのでしょうが、私にとっては華麗でもなんでもないですね。この高野・後藤一族の方がよほど「華麗」と呼ぶに相応しい。 さて、このように一族から次々に国を担うような天才・秀才が現れるのははたして偶然なのでしょうか?私が思うに偶然ではありません。私自身の経験も踏まえての推測ですが、彼らは幼少時から将来超大物になる基礎となる教育を受けていたのでしょう。それが実った結果が「華麗なる一族」を作るのだと思います。逆に言えば教育を怠れば一瞬でその流れは断ち切られてしまうでしょう。 実際幕末から戦後すぐにかけて超大物を次から次へと輩出した別の一族の現在の人物の体たらくを見るにつけそう思わずにはいられません。