城砦都市の功罪

先日の事です。前日から当日にかけて天気予報をチェックすると、ちょうど帰宅時刻頃に台風16号が静岡県を直撃しそうな予報となっていました。昼頃には東海道線豊橋~米原間の間引き運転が始まり、「これは確実に電車止まるな」と確信しました。以前東海道線が止まって酷い目に遭った(ネットカフェで始発を待った)ことがあったので、今回はその危険を避けるために初めて車で出勤しました。結果的には台風16号は静岡県に跳ね返されるかのように突如進度を変え、温帯低気圧となりそのまま消滅、鉄道への影響も県内ではほとんどなかったようです。もっとも帰路興津~由比の海岸沿いはかなり強風が吹いており、腐っても台風だな、と思った次第です。
 ところで、自分で運転して静岡市街中心部まで入るというのは今回が初めての経験でした。今はネットで事前に詳細な地図だけでなくストリートビューで風景まで把握できるし、スマホに地図も取り込めてGPSで現在地の確認もできる。自分は元々抜群の方向感覚がある、と自負してはいますが、それでも初めて出かけるところの詳細がこれだけわかるというのは非常にありがたいことです。おかげで一度も道を間違うことなく出勤できました。

 しかしながら、迷わなかった=快適だった、とはお世辞にも言えません。むしろ静岡市街の道路の複雑さには辟易しました。事前に地図を確認した時点で「なんじゃこりゃ?」と思いましたね。清水方面からバイパス経由で静岡市街に入ろうとする場合、賎機山トンネルを抜けた直後にICを降ります。ところがすぐに左折してそのまま市街には向かえない。一旦右折Uターンしてかなり戻るか、あるいはかなり先に進むかしないと静岡市街へ延びる街道には行きつけない。「なんちゅう面倒な」と思いましたが、これは裏技を使って切り抜けました。そして帰り道。基本的には降りたICから入れば良いのですが、市街の道路案内は西へ西へとどんどん市街を外れた方向に導こうとします。「俺東へ帰りたいんだけど」と不安になりつつようやくICに到着、遠回りですが確かに道路案内板の指示が最短コースのようです。「なんでこんな遠回りするような道なんだよ」とツッコミたくなりましたが、バイパス運転中にふと気づきました。
「そうか家康の陰謀か」と。

 静岡市街から郊外へと抜ける道はどれも緩くかつ大きく曲がっています。そのため市街ではすぐ隣の通りなのに、それを進んだ先は全然違う場所になるようになっています。そしてこの通り、決して駿府城に直行はできないようになっています。これは間違いなく経済優先ではなく軍事優先の発想。徳川家康が駿府城の防衛を最優先に考え、道路構造を複雑にしたことが今でも影響しているということです。「これは方向感覚の鈍い人間は悲惨なことになるだろうな。」と運転しながら考えていました。
 実は東京=江戸も同じような構造をしています。都市計画を専門とする学者(私の従兄)が「東京の最大の渋滞原因は道路の構造にある。それは江戸時代が祟っている。」という話をしていたのを思い出しました。江戸も駿府も同じ人物が作った街ですから、同じ課題があるのも当然ですね。東京も主要街道は一つを除いて緩く大きくカーブしています。そして主要街道が江戸城には直行できないようになっています。唯一の例外は甲州街道。これは徳川将軍がいざという時に天然の要害である甲斐に逃げるための街道なので、防衛ではなくスピード優先の真っすぐな道になっています。

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 ではこの徳川家康設計に基づく城砦都市、果たして役に立ったのでしょうか?結論は当時ならばYes、今となってはNoです。家康江戸入り後は基本的に江戸での戦闘はありません。実際に戦闘が起こるのは幕末の上野彰義隊の戦いが最初で最後。この時、彰義隊は現在の上野公園に籠城するわけですが、これを攻撃する側の官軍(=明治新政府軍)は意外に攻めあぐねます。官軍の主力である薩摩軍は上野広小路松坂屋前から攻撃しますが、緩く大きくカーブする街道のため銃砲がまるで役に立たず、刀を抜いての白兵戦は互角か彰義隊が若干優勢。戦闘開始前に有村俊斎(=海江田信義)が大村益次郎に「薩摩を殺す気か!」と食って掛かった通りの結果になります。
 そういう意味では家康設計の防衛都市は存分にその能力を発揮したと言えるでしょう。ですが、史実はご存知の通り最終的には彰義隊の負け。日本史上トップクラスの戦略家・大村益次郎がそんな予想される展開に手をこまねいているわけもなく、本郷の加賀藩邸(現東京大学)から最新のアームストロング砲で不忍池越しに砲撃を加え彰義隊は壊滅します。家康の防衛構想は当たり前ですが戦国時代当時の物。最新兵器を有効活用できる大村益次郎にその防衛構想が通用しなかったのは仕方ありません。

 かくして城砦都市としての江戸とその街道に意味はなくなりました。防衛第一の街の構造は渋滞の元凶となって平時の経済活動に地味に痛手を加え続け現在に至ります。関東大震災と戦災で一面焼け野原となり、不謹慎ではありますが抜本的に都市計画をし直す機会が二度もあったにも関わらず、それを活用できなかったのはもったいないなあと思わざるを得ません。